セリフの中の英雄の形容詞、二つのテキスト
イーリアスネタは久しぶりですね。
いや、決してサボっていた訳じゃないんですよ。
すこーしずつですが、読み返しは進んでおります。
で、1書393行。
アキレウスのセリフ中の形容詞のことを書こうと、邦訳本をよく読み返してみたら・・・。
何と、原文とは微妙に違う訳になっているではありませんか。
しかも、その当の形容詞の部分がですよ。
ブリーセーイスを奪われ、母である女神テティスに苦しい胸の内を訴えるアキレウスのセリフ。
まずは私の直訳した趣のない原文の訳と、その他の翻訳とを見比べて下さい。
(土井晩翠訳は393行だけを訳しているわけではないので、長いですが)
だからあなたは、ともかく叶うものならば、優れた息子を助けて下さい。 (イーリアス第一書393行原典直訳)
もしあなたにそのお力があるならば、どうか御自分の息子をお守り下さい。 (岩波文庫、松平千秋訳)
神母よ君の子を救へ-言葉或は行によりてヂュウスを君嘗って喜ばしめしことあらば。(土井晩翠訳)
But, you, if you are able, guard your own son しかし、あなたが可能であるならば、あなたはあなた自身の息子を守って下さい。(ペルセウスサイト掲載の英語訳)
いうまでもなく日本語文章として、かつ現代の読者には、アキレウスのパーソナリティをも象徴する彼のセリフとして受け入れやすいのは松平訳以下ですね。
現代の読み物では、セリフには登場人物の個性が反映されるのが普通ですが、イーリアスはもともと詩人の吟唱によるものであり、それがたとえアキレウスのセリフであっても詩人に語られているものです。
英雄には「勇敢な・優れた」という形容詞が付くのは普通のことなので、本人のセリフの中でも区別されずに使われるのです。
(参考)Thomas D. Seymourの注釈
翻訳者の方々は、いずれも意訳されているみたいですね。
それではこの言い回しは違和感はないのか、というと、ウーン・・・、実はゼノドトス(紀元前3世紀の人)がこの語を改訂しているんですね。
それで少なくとも、イーリアス原典ではこの箇所は二通りのテキストがあるのです。
イーリアス原典はいくつかの種類がありますが、私も詳しくないので言及は避けますが、とにかく一つではありません。
どこかの教会にあった写しとか、古代の図書館から伝わったものとか。
話の運びに大きな違いはありませんが、写しをした古代の専門家とかが自分の解釈を加えて当時の感性で、単語をちょこっと差し変えてみたり、語尾変化部分を変えてみたりしてるんですね。
私が「優れた息子」と訳した部分は、改訂前テキストではパイドス ヘエーオスになっています。
パイドス~名詞パイス(「子供」という意味)の男性単数属格
ヘエーオス~形容詞エウス(「良い、優れた」という意味)の男性単数属格
そしてゼノドトスはパイドス ヘオイオに改訂しました。(スコリア(欄外古註)による)
パイドス~上記と一緒
ヘオイオ~所有形容詞ヘオス(「彼のもの、彼女のもの」という意味)の三人称男性単数属格
改訂したものが正当かどうか、改訂前をオリジナルに近いと考えるかなどで色々あるようですが、私が調べた他のサイトや本では以下の通りに分かれます。
ヘエーオスと記載(但し欄外古注にて修正を併記)~
ペルセウスサイト、Oxfordのテキスト、Pharrのテキスト、私が昔アテネで購入した現代ギリシア語訳テキスト
ヘオイオと記載~
Willcockのテキスト、岩波ギリシア・ラテン原典叢書シリーズ『ホメロス:イリアス1(高津春繁校注)』のテキスト
改訂前のものをオリジナルとして採用しているところも多いですね。
けど、訳ではみんな「自分の息子」にしていますね。
アテネで購入した現代ギリシア語訳版などは、古典語のテキストはヘエーオス(優れた)になってるにもかかわらず、現代語訳は二人称の人称代名詞を使い、「あなたの息子を(助けて下さい)」でした。
けれども、ゼノドトス改訂版パイドス ヘオイオを直訳しても三人称なので、「彼女自身の息子を」になってしまいます。
本来なら二人称を使いたいところでしょうが、それだと前の語パイドスとの兼ね合いで、韻律がちゃんと六脚にならないため、三人称で代用せざるを得ないようです。
行頭で「されば、あなたは」と、二人称で主語を掲げておきながら、続く文で三人称を使い「彼女の息子を助けて下さい」というのもちょっと適切な言い方ではないのでは?
そうすると一概に、ゼノドトスの改訂版の方を各翻訳本が訳したわけではなく、改訂版を参考にしつつ意訳した結果、「自分の」とされた感じがしますね。
確かに、読み物として今の時代の読者に受け入れやすい形にするのが翻訳でもあるので、原典に忠実にできない部分もあるようです。
ゼノドトスが改訂したのも、時代が変わって感覚が違ってきただけで、当時はこの言い回しで普通だったのかも。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)


